昭和52年01月15日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」
最近、まあ教団全体に言える事だと思うんですけれど、教祖金光大神の生きられ方、所謂御生きられ方と言う事があります。教祖金光大神様の御生きられ方というものを、私共がまっ頂かなければならんという事は間違いがないのですけれども、それこそ、この方の様な氏子を天地の親神様がまだ見た事がない、とまで仰る程しの、教祖の神様の生きられ方というものを私共が真似した位な事で、例えば本当の信心のおかげが受けられるはずは絶対に有りません。
もう言うならば屑の子の屑の子である所の私達が、生神とまで仰がれ、天地の神と同根とまで讃えられる教祖様の真似と言ったような事では、本当に真似になって、言うならば実意丁寧の化け物が出来るだけだという風に私は思います。と言うて、ならその生きられ方というものを目指すという事は、だからこの方だけが生神ではない。皆此処に参っておる氏子が皆さんが、なら一人一人が生神の内容を持っておる。
神の氏子としての自覚を皆さんが頂かれ作られて、そしてそれに向かって、言うなら一歩一歩近づいて行くという事は、赤の人は赤、白の人は白、青の人は青、それぞれの言うならば性格と言うか頂いておるその性格を、より素晴らしいスッキリとした色に仕上げて行くという事なんです。阿倍野の伊藤先生が、お説教をなさっておられる中に、生神への道というのがございます。生神の道と題してお話しなさっておられます中に、丁度これは、去年の正月に出されておる一年前の話。
丁度去年の十月の去年一昨年になります、去年一昨年の十月の御本部参拝の事があります。あちらは五年の記念祭、記念祭を一つの節として先生が願われる事は、例えば五年祭迄千人の氏子がおったならば、次の十年祭にはどうぞ二千人になります様に、という様なまあ言わば願いをなさる。丁度去年一昨年の十月は、初めて阿倍野から十輌の連結の列車で、3列車で御参拝が出けられた。
その事を、大変神様が願いを聞き届けて下さったという事を、お礼を申しておられますが、その時の御本部参拝が、御本部の方から、阿倍野は七日の日に参ってくれというご通知を受けられた。所が、十日に何時もお参りをされるのに、今度の十日は丁度土曜と日曜で、参拝するのにも一番都合の良い日にお参りをさせて頂こうと思うておられたのに、七日と指定をしてきた。
それで皆が、そりゃあ困ると言うてやっぱ口上を言うた訳でしょう。その時にお話になっておられる事がです、神様が此の様にしてお徳を下され様としておるのですから、お断りしては勿体ないと言っておられます。神様がこの様にしてお徳を下さろうとしておるのであるから、それを辞退したりお断りするという事は勿体ない。もう伊藤先生の行き方は、もうこれに尽きるわけです。
しかもなら芯というたら一つじゃと、芯がなければ火が灯らんと言うが、そのともる火でも小さい芯じゃ小さい火が、大きな芯を頂くから大きな光になるのだと言う風に説いておられる。もう私は今日の十八節を頂いて、私が今日御神前で頂きました事とあんまり同じ事で有るのにビックリしました事は、あんな私、蚊取り線香と言うものを見たことがないが、小さい線香で、あの仏さんにあげるごたる小さい線香ですけれども、沢山こう渦巻き状態になっておって、中心になんか柱が立っておって、それに立てておるわけですからピラミッド形にこうなるわけです。
それはもうとても大きな、線香は小さいですけれども、所謂ピラミッド形にこう立てられて、それに火がついてずっと燃えていく所を頂きました。蚊取り線香と言えば、此処では何時も、馬鹿と阿呆で道を開けと福岡の吉木先生が四神様から教えをを受けられて、福岡の信心の芯と言われておる、馬鹿と阿呆で道を開けと。だからその流れを汲む私共も、馬鹿と阿呆にならして頂く事を、一生懸命精進させて頂いたんです。又今日でも精進させて頂いております。
それがね、ですから段々この下の方は大きいけれども、段々段々小さくなっていって、上の方になって行くに従って、所謂頂点になって参ります。段々火は小さく小さくなって行くわけなんです。この馬鹿と阿呆で道を開くという事はね、この修行が出けますと、段々もうそんなに馬鹿と阿呆〔に〕ならんですむ様な、煩わしいことは無くなってしまうという事です。段々少なくなって来て、此処を言わば行ったり来たり、馬鹿になったり利口になったりしよるから、何時まで経っても煩わしい事が取れんのです。
これは私の、何十年間の信心を思うてみても確かにそうです。煩わしい事は、本気で馬鹿と阿呆になろうという気になるとです、本気で馬鹿と阿呆にならにゃ出来ない様な、なら事柄やらが次々と起きて参りますけれども、段々段々燃えて参りますに従って、少なくなって来る、小さくなって来る。そして上の方へ頂点、ここん所を私は生神金光大神というのではないかと思います。
阿倍野の先生がね、わざわざ神様が皆がお参りしにくい、出来にくい、ちょうどその日なら出来んかもしれんと、いった様な、土曜日曜ならそんなら、誰でも参るけれども、と思うけれども、その参り難いところを、言わば真心一杯で押して参るから、お徳を受けるのじゃと仰っておられる。そんならもう、土曜日曜がなかけん参らんと言うのではなくて、しかもそれが初めて阿倍野としては、3輌の汽車で、お参りが出来られる程しにおかげを受けておられる。
本当にシャ-プな事ですね、先生がそういう受け方をされ、そういう事を信者にも教導される。日曜が入らんからお参りがしにくくもあろうけれども、そこを押して参るのがやむにやまれん神様への一心が立つのだ。だからお徳を受けるのだ。わざわざ神様が参り難い日を指定して言うて下さったという事は、お徳を下さろうとしての事であるから、お粗末にしてはならんと言っておられる。
そういう信心が、私共は段々出来ていくという事だと。初めから教祖様のお真似をするという様な事やらは、教祖様はこうなさったああなさったと、言うならば実意丁寧だからと言うて、ただ頭さえ下げておれば実意丁寧の様に言うたり思うたりして、所謂中身の無い実意丁寧、おかげの受けられない、力の受けられない、徳の受けられない、実意丁寧ではもう始まりませんよね。
実意丁寧になりゃお徳が受けられる、力が受けられる、おかげが受けられる生き方、私はそれぞれに身近に稽古して行く事だと思います。皆さん、もう合楽の合楽理念も、もうそれが芯です。成り行きを大事にして行くといった様な事がそうです。成り行きを尊ぶという事もそうです。言うならば馬鹿と阿呆で道を開くという事なんです、ね。しかもです、それがね段々段々渦が、こまこうなって行く。
本当に煩わしいといった様な事もなくなる。昨日高橋さんがお届けをしておられますのに、沢山の支店があります、沢山な従業員がおります。本当に神様が、わざわざ信心の稽古をさせて下さろうと、思いなさるからだろうと思います。まあ良い従業員がいない。給料が安かりゃあもう辞めると言うし、給料をやりゃあもう直ぐつけあがるし、まあとにかく、言うなら手の付けられない従業員がおるという事は、愈々私高橋定利に、愈々馬鹿と阿呆になれよ、愈々これに依って信心の稽古をせよと言わんばかりに、まあ良い従業員が少ないとこう言われるのです。
まったくその通りだと私思います。だから高橋さんの信心がもっと偉大になり大きくなって行かれるに従って、言うならば自分でも昨日言っておられます様に、三福寿司に命を欠けるといった様な職人やら、小僧達が集まってくる様なお繰り合わせをお願いします、というお願いが昨日ありました。だから願うたから頂いたんではいけん。やはり自分自身が、段々本気で馬鹿と阿呆になって、段々大きい渦から小さい渦になっていって、本当に三福寿司のために神様が良い意味あいにおいてです、誂えて下さった様な人事の上にでもおかげが頂けれる様にならなければいけないと言う事です。
同時に最近言われます、ゆとりのあるおかげを願え、これも阿部野の先生の言わば御本を読ませて頂いてから、丁度その朝、この御本を頂いた朝の御理解が「にこやか」にという事でしたよね。もう阿倍野の先生に何日間もあちらに泊まらせて頂いて、矢野先生があちらで感じた事。先生が信心をとても頂くなどという事は、大変それは難しいことだ。ただ見たり聞いたりしただけで分かることじゃないけれども、あちらの先生のお取次ぎをなさっておられる様子を、下から拝ませて頂いておると、もう何時もどんな場合でも、にこやかであられるという事だと言う。
只顔だけがニコニコしておられるのじゃない、心がいつもにこやかでおありになるという事だと、矢野先生私に教えて頂きました。朝の御理解にその事を頂いておりましたから、ああこりゃもういよいよもってにこやかにならせて頂かなければならないな、問題は心がです、ね。カツッときたとか、モヤモヤしたとかという様なこともないおかげを頂かせて貰わにゃならん。
先日から、あの神心という事についての御理解に、親が子を思う、子が又親を思う、その肉親の情というものがです、赤の他人に掛けられて、それが初めて神心だと頂きましたよね。子供の事を思う、孫の事を思う、それこそ目の中に入れても痛くない程に可愛い。その可愛いと思う心が神心だけれども、肉親を可愛いと思うのはそれは凡情です。けれども赤の他人の誰彼の上の事がです、それこそ目の中に入れても痛くない程しの可愛いという心が生まれて来たときに、初めて神心だと。
私はその御理解を頂いて、もうお取次ぎをさして頂く時に、それをすぐ思うんです最近。ああこの人がもし私の子供であったら。これがもし私の親であったらという風に、もう本当におかげを頂きますですね。あんたがそん位なこっちゃからおかげを頂かん、そげなことではおかげは頂けないですよと、とても悪口どん言える段じゃなか。自分の子供の事であってみなさい、絶対悪口なんかは、例えば人が言いよんなら腹が立つ位にあるのが親心だ。それが他人だから、陰で陰口を言うたり悪口を言うたりする。
だから自分の子供だと思うたら悪口や陰口やらは、いや、もし他人が言いよんならそれを庇うてやりたい、カバ-してやりたい様な心が私は神心だ。私、あれ以来非常に私のお取次ぎの内容が変わった様にさえ思うんです。昨日は皆さんも、御参拝になられた方は御承知であった様に、佐田さんの所のお母さんの告別式が、もう本当に盛大というか有り難い、もう本当に有り難い有り難い、日頃の信心があの様にして形に現れて来るんだなと、思わせて頂きましたが。
此処で告別式があるというお届けがあった時から、私はすぐ感じたことはね、自分の親の告別式と、思うたらという事が一番のことでした。そしたら神様が御心眼にあの白百合の花がこげんしとりますたいね、こう曲がった白百合の方が、私の胸、いわゆるハ-ト目掛けてさっとこう、言うならこちらに向ける所を頂いたんです。そん時は、どういう事か分からなかったんです。
昨日もう式の始まる10分位前に初めて覗いて見ましたら、余りにも見事に出けておるので、もうビックリするやら、有り難いと思うやら、本当に有り難い事だなあと思うた瞬間に、神様がもう私の頂いた百合の花のこうしとるとを、あの斎場の方え向けてワッとこう反対にこう向けて下さった。ははぁあの時に頂いた百合の花というのは、こう家と言うのは自分という事だと思う、私の方を向く。私が私の親ならと思うての祈りがと言うてん、私はもう今度は何一つ指図もしませんでした。
ああせなならん、こうせなならんという事、それがあの様に見事に、それこそ有り難い、もう誰だって斎場に入っただけで有り難いなあ、信心ちゃ有り難いなあ、信心のお徳ちゃありがたいなあと思われただろうと、思いますような素晴らしい告別式でしたし、斎場がそういうもうそりゃもう何というでしょうかねえ、もう誂えたという様な事を申しますが、本当に誂えた様に素晴らしい祭壇が設けられました。
本当にもう後から若先生が言いよりましたが、もしあれが葬式屋に頼んだつなら、百万円はとられるじゃろうち言いよりました。それはもう、昨日あれしてから私の所に計算書を持って来ましたが、もうそれこそ、もうビックリするごたる、ほんなこっちゃあるじゃろうかというごと安う上がっとるわけです。ああ私がね、私が例えば親の告別式ならと、私がその思う、信者の告別式じゃない、言うなら私のささやかな神心が使われた所にああいう素晴らしい。
私が指図もせんなかにあれだけの事が出けたんだという事を思わせて頂いたら、今度はその百合の花がね、中央、真ん中の方、向く所を頂いたんです。そして、その百合の花が私の方を向いて、又は祭壇の方を向いて、そして真ん中の方を向いて、それは二日間に渡って頂いた事なんですよ、だから前の日に頂いたからね、頂いてです、私が又分からせて頂いた事はです、幾ら親と思うても他人は他人なんです。
幾ら信者だったからうちの総代だったからと、幾らほんなら言うても思うても、ここは神ならぬ私ですからね、親と思うておるけれども、ほんなら親を思う程しのことをね【聞き取り不能】ことを言って、それでもね本当の事ではなくても親と思うその神心に免じて、神様がこういうおかげを下さったんだという事を、三回に渡って頂いて始めて分かりました。ですから皆さん、皆さんの周囲の関係のある方達の家をです、自分の肉親の者と思うたら、悪口やら陰口は言われんのです。
そりゃあ肉親とは思えなくともです、そういう思いをすると、肉親と思うたように神様があとの足りない所はカバ-をして下さって、昨日の斎場があのように出来た様なおかげを下さるのです。問題はね、私はそういう稽古がね、言うなら神心と仰るのですから。自分が、子供が可愛い孫が可愛い、目の中に入れても痛く無い程に可愛い、そういう心をです、赤の他人の誰彼に使わせて頂くという事が神心じゃと仰る。
だから私は神心を使うた。そして実際純粋な神様の目からご覧になると、言うならば肉親と他人とのあい中位のことしか思えていないけれども、神心を使うたとしておかげを下さったんだという事。だから信心の稽古というのは、そういう稽古をたゆまずさせて頂くという事なんです。神様がお徳を下さろうとして、わざわざ阿倍野の教会で、一番都合の悪い七日という日を指定された。
けれども先生の受け止め方がです、神様がお徳を下さろうとして、いくら一番参りにくい日に、皆がそれでも押して参るというその心こそが真心ぞ、その心こそがお徳を受けることだと教えられた。今までかってない、今までは阿倍野の教会で2列車と何時も言われております。それがその年に限っては、だから3列車の3輌の車で参拝が出来たという事を、大変に有り難く思いますと言うてお説教をなさっておられます。
だから合楽理念もやっぱりそこです、その行き方をです、本気で身に付けていく以外にはない。我が心が神に向こうて行く、愈々馬鹿と阿呆になる以外はない。しかも今日のほんなら馬鹿と阿呆は、何時も同じ様に馬鹿と阿呆になっとらにゃんかというのではなくて、もう例えば久留米の先生が信心辛抱ということを言われたが、初めの間は血の涙が流れる程のことでも辛抱なさったに違いはないけれども、これは私が思うのですけれども、御晩年の頃の石橋先生の場合は、もう辛抱しなければならない様なことも、もう無くなられたんじゃないかと思います。
又心の中に、一切がおかげであるという事を、血の涙が流れる様な思いの事でも、有り難涙をこぼされたのじゃないかと思います。生神へ向かうという事は、そういう事なんです。皆さん、自分の周辺の人に、色々な問題がある時に、あれが自分の娘なら、あれが自分の息子なら、とまず思うてね、真から出来やしませんけれども、思うたら、ならその家の事を、悪口どん言おうと思いよる時には、もう絶対赤の他人と、思うとるから悪口を言う陰口を言う。
だから自分の娘、自分の息子と思う様な思い方の稽古をする事が、神様へ、言うならば一歩一歩近づいて行くことであり、又は愈々馬鹿と阿呆にならせて頂く稽古をさせて頂いておると、もう馬鹿と阿呆にならんで済む程しのおかげに、段々段々こう小さくなって行くという事です。その頂点を私、生神と言うのだと、こう今日私がお知らせを頂いた事からです、この御理解十八節を今日は聞いて頂いたわけですけれども。
だからね生神様の生きられ方、御あられかたというものを今真似した所で出来る事はないけれども、そういう様々な問題を通して様々に馬鹿になる稽古、阿呆になる稽古をさしてもらい、又は愈々自分の心ん中にある所の他人心を神心にして行く行き方をです、身に付けていく修行が段々出来て行く内に、赤は赤、白は白、青は青なりに神へ向かうていく事は出来るんだと。
言うなら実意丁寧神信心も自ずと段々本当のものになって来る、これでなからなければです、中身のない、言うならば御あられ方ばかりを言うとったんでは、御生きられ方ばかりを言うとったんでは、それこそ形の事は出来ても中身のない、所謂お徳の受けられない、おかげの受けられない実意丁寧では、生神へ向かっておる信心とは言われない。まず自分の心に取り組ませて頂いて、今日皆さんに聞いて頂いた様な内容をです、日々の信心修行に打ち込んで行くならば、間違いなく神様に向かって進んで行く事が出来る。
佐田のお婆ちゃんの生きられ方じゃあないけれども、とにかく自分の癌というものをまず知って、これがあっては自分が助からんと、自分が助かる事のために、言うならば一心に御教えを頂かれたという事がです、万ろく行ですかね、万のろくということ、行です。言うならば御神徳を頂くための修行、あるいは修行であったと。聞いて頂きました様に、私共そのお徳の頂けれる万の事を、お徳を頂く事の為の見方あり方にならせて頂くというその行こそがです、生神への道だと私思います。
阿倍野の先生は生神への道、起きてくる言うならばどんな事であっても、例えばお参りがしにくうなってくる様な所になっても、お参りのしにくい所をそれでも昨日の御理解でいうと、道念心を燃やして、神様へ神様へと向うて、教会へ教会へと足しげく足を運ばせて頂く。そういう行き方を生神への道だと説いておられます。私この御本を、2、3日前になりますけどね。
頂いて本当に合楽の信心が又一つ、一段向上するというか深められるというか、そういう様なものを感じます。とにかくやっぱり、ああいう大徳を受けられた先生の御信心にあやからせて頂きたい。そして生神えの道はそんなにあれこれという事ではない。合楽で言うておる事も同じ事なんですけれども、そういう大変なおかげを受けておいでになる、実証者の言われる事ですから、又一段と有り難くそれを受けさして頂く事が出来ましたね。 どうぞ。